「岩槻人形」という文化が始まったのには諸説あり、記録等がないので特定が難しいそうですが、そのなかで、現在伝えられているのは、工匠たちがこの地・岩槻に住み着いたことが始まりらしいと言われております。
今から400年以上も前、日光東照宮造営のために宮大工が諸国から召寄せられました。やがて殿堂が竣工落成し、大工たちはそれぞれ国に帰りましたが、なかには日光や日光街道のどこそかに留まって永住した者もいたといいます。岩槻にもそのような工匠が住み着き、雛人形の頭(かしら)を作ることを生業にし始めました。
岩槻に人形産業が発生し発展したのは、良質の水があるということ、頭の材料である桐粉が、岩槻、春日部地域の箪笥作りにより多量に発生したことにより、材料が入手しやすかったという地理的な要因にあるようです。
それと同時に、お人形作りの職人だけでなく、お人形作りに関わる人々によって、岩槻は人形の町と呼ばれるまでになりました。お人形のお着物の生地の販売店や、その生地を裁断し加工する職人。そして、雛人形や五月人形、持つ小道具や小物類づくり、お人形を入れる桐箱に至るまで製作する職人が、岩槻城を中心に周辺に住み、発展していきました。また、岩槻城の武士浪人も、お人形作り関係で生計をたてる者のもいたという話もあります。
1830年代の文献からは、岩槻宿で人形に携わる人が居住していたこと、神社への奉納や雛人形販売の一端を知ることができ、その後も日光御成道ほか各地の市で岩槻の雛人形が大盛況だと伝えられています。
左)阿部家岩槻在城(1623〜1681年)右)岩付城并侍屋敷城下町迄惣絵図(岩槻市本町 岩槻市教育委員会所蔵)
時代は変わり、大正12年、関東大震災で東京の人形師たちが岩槻に疎開してきました。彼らは岩槻の職人に技術を伝授し、岩槻の職人の技術は大きく進歩しました。それまで、東京の職人が作るものは上等品、岩槻の職人のものは東京にはかなわないと言われていましたが、腕を上げた岩槻職人の作る人形は、一級品として広く認知されたのです。
以降、都内や海外のデパート販売や品評会への出品など新しい試みにチャレンジするなど、時代の変遷のなか、妥協のない職人たちの人形作りが確固たる「岩槻人形」というブランドのもと、製作を続けています。
岩槻の現在
現在、岩槻では人形の町としてのイベントが、年間を通して様々ございます。
2月末~3月3日までに行われる「流し雛」は、鳥取県用瀬の桟俵(さんだわら)を使用してその中にひとがたのお人形を入れ、願いを書いた短冊を添えて流しお祈りする、神聖な行事です。
また、2月~3月にかけての、「まちかど雛巡り」では、街の商店や民家の玄関先などを開放して頂いて、古くから伝わる歴史ある雛人形の数々を展示してご覧いただけます。
そして、8月の「岩槻祭り」は、その年に結婚した新郎新婦が、お雛様の仮装をして街中をパレードし、ジャンボ雛壇に座ってお披露目する、見応えたっぷりのお祭りです。
11月3日の「人形供養祭」におきましては、大切にしてきたお人形が古くなってしまったからといって捨てるに忍びないというお気持ちに応えて、お人形をお焚上げして、供養をさせて頂く、伝統ある行事の1つです。
このような、人形の町・岩槻の伝統文化にふれて頂けるイベント行事に、足をお運びいただけますこと、お待ちしております。
岩槻流し雛
岩槻祭り
供養祭